私が最初に「シュタイナー教育」に出会ったのは、退学処分が解けて大学に戻った直後、1960年代の半ばだったと思います。友人たちと一緒に「光の子学園」というグループを立ち上げ、夏休みに首都圏の子どもたちを集めて長野の山に連れて行き、本気でぶつかる合宿活動をしていたころです。多い時には100名を超えていたと思います。普段は定期的に読書会を行い、ルソーのエミールなどを読みあさりました。その当時に、ドイツの教育のことも耳にしたと思います。その後、私は裁判官となって合宿活動も手薄になりましたが、教育のことは頭から離れず、75年に子安美知子さんが『ミュンヘンの小学生 娘が学んだシュタイナー学校』を出された直後に、手にしました。
そして77年に裁判所を去って参議院から国政にかかわり始め、83年からは衆議院議員となって、教育行政にもかかわりを持つようになりました。そのころ、「おさむ君事件」という悲しい出来事が起きました。作文が好きな小学生のおさむ君は、新聞折り込みの広告など裏が白い紙があれば、とにかくそこに自分で作った物語を書くのです。先生はこれを許さず、「ちゃんと学校の勉強をしなさい」と厳しくしつけるため、とうとうおさむ君は耐えられずに自殺をしてしまったのです。こんなのは「教育」ではない、「しつけ」ですらないと思い、委員会で質しましたが、ろくな答えは得られませんでした。
当時、「学校不適応児」という言葉が盛んに言われました。学校に適応しにくい子どもという意味なのですが、私は、それは違うと主張しました。学校が子どもに適応していないので、変わらなければいけないのは学校なのだという問題提起です。ところが暖簾に腕押しで、誰も皆問題の所在は分かってくれたようでも、だから何か改革しようとはなりませんでした。そんな時、シュタイナー学校のことを思い出していました。
それでも、日本に現実にシュタイナー学校があることは、あまりよく知りませんでした。私の娘が3人の孫たちを、「賢治の学校」に入れて育て始め、初めて直ぐ身近にシュタイナー学校があることを知りました。3人とも男の子ですが、実に個性的な育ち方をしています。長男はどうしても環境のことを学びたいと、地方の公立大学に進み、その地域の皆さんと仲良く街づくりに取り組んでいます。二男は中学生、三男は間もなく中学生で、上は「能」に、下は「鳥」に、強く魅かれて大人たちをびっくりさせています。
さて、彼らがどう育つのか、それはよく分かりません。確かなことは、今の公教育の中で育つよりもずっと魅力的な人間になっていくだろうということです。そして、社会の活力源はやはり多様性にあるのであって、いくら「どんぐりの背比べ」を頑張ってみても、社会の構成員がみな同じパチンコ玉のように個性を失っていては、これからの時代に活力は出て来ません。シュタイナー教育は100年で、押しも押されもしない実力を身に着けてきたと思います。若者のモノトーン化が目に余るこの時代に、今こそ100年の継続の力が必要です。頑張ってください。応援しています。