関東二校の卒業生が熱く語る
卒業生座談会

2. 点数評価のない学びの実際

座談会風景(2018年9月16日聖心女子大学)
座談会風景(2018年9月16日聖心女子大学)

司会:シュタイナー学校では、通信簿は点数評価ではないですね。各教科、すべて文章で書かれています。そういう通信簿をもらって、いかがでしたか。

坂本:一般の高校の点数評価はご存知のように5・4・3・2・1ですけれども、あれは定期試験の点数を基に出しますよね。ですから極端な話、授業中ずっと寝ていても、定期試験ができれば成績はいいのかもしれない。逆に、ちゃんと授業を聞いていても、たまたま試験ができなければ成績が悪いかもしれません。一般の高校の生徒は、異常なほど数字を気にする傾向が、とくに進学校ではありますから、そういう数字だけを用いた評価はずいぶん窮屈に感じました。

シュタイナー学園の評価はあくまで個人個人に与えられた文章ですから、できたかできなかったというよりは、どういう取り組み方をしたか、どういう学び方をしたかということが記されています。じつは、高等部で先生方が書かれる内容の中には、生徒にとってはドキッとするような意見もあるんです。否定的なことは書いてないですけれども、「ここをもう少し努力すればもっとよくなる」とか、「でも、こういうところができていたよ」とか非常に具体的に書かれています。その評価を読むとたとえば、浦上先生の授業では自分がどういう風に学んでいたのかがよくわかります。そこが公立の評価と違うところだと思います。

菅谷:高等部に上がる前までは、「先生からのお手紙」くらいの気持ちで、通信簿は楽しみにしていました。自分が何をしたのか、どういう風に過ごしていたのか、先生から文章で書いてもらうという楽しみはありました。確かに高等部になってからは、時々厳しい意見も書いてありました。例えば、私はあまり理数系が得意ではなかった。普通の解き方ではなく、変なアプローチをしたらなぜか解けていたとか。でも、「そういう取り組み方だけど頑張っていた」という風に書いて下さっていて、自分はちゃんと頑張っていたんだ、解けなかったけれどもプロセスは見てくれていたんだなと分かってよかったなと。

司会:藤井さんはいかがですか。

藤井:ぼくは中学校まで普通の通信簿をもらっていて、何の違和感もなかったです。高校は、文化祭が面白そうだったので、頑張って勉強してその高校に行きましたが、毎日の勉強がすごく面白くなかったんです。進学校なので授業のペースも速いですし。

誰にでも「これが得意だけど、これが苦手」というものがあると思いますが、その回ごとにやっぱり順番が出てくるわけです。ここでは1番、ここでは2番というふうに。そこで一生懸命がんばる意味って何だろうと疑問がありました。それで、その後でシュタイナー学園に行ってみたら、「あなたはこういう考え方をしていて、これはできないかもしれないけど、こういう風にしたらできないこともできるかもしれない」と、やはり数字より文章で書かれた方が具体的ですよね。

松浦:ぼくは通信簿に何が書かれていたのかは、ぜんぜん気にしてませんでした。ただ、文章量はすごくって、めちゃめちゃ自分のことを見て下さっているという実感はありました。先生方の熱量、愛情はすごいなと、今は思いますね。先程のテストの話で、分からなくてもごまかせる力が培われたみたいな言い方をしてしまいましたが、実際はそういう意味ではなくて、分からなくても考えるプロセスを書くことができるということです。

シュタイナー学校でも高等部に上がるとテストは一応ありますが、数学のテストなどでも回答欄がなくて、紙だけ渡される。回答にたどり着くまでの計算プロセスで評価されるのです。考えるプロセスをちゃんと評価されるから、「最終的な回答が合ってなかったから零点」という評価はされなかったと思います。

司会:低学年からこの教育を受けた坂本さんは、その頃の印象は何か残っていますか。

坂本:今思い出したのはフォルメンの授業です。ノートに直線と曲線で図形を描いていく、フリーハンドで描くのですね。そのときに、きれいに描こうとして測って印をつけた生徒がいたんですよ。そしたら担任の先生が、「測って描くよりもその白紙に集中して、自分の感覚で描いた方がきれいな図形が描けるよ」と言っていたことを思い出しました。直観といいますか、自分の感覚を頼るといいますか。客観的なモノサシの長さではなくて、自分の感覚を頼りに、自分が美しいと思う線を描き出していくという授業が記憶によみがえってきました。

司会;中学生くらいになると、教育や学校を批判するようになりますね。そんな時期のことは、何か心に残っていますか。

松浦:「シュタイナー学校ってどういう学校ですか」と聞かれたときに説明しやすい例が、ドイツの先生の授業のことです。歴史の授業で、「シュタイナー学校の歴史の学びでは、何年何月に何がありましたというのはないんだよ」と言っていた先生です。授業の冒頭で、「君たちにとって歴史とは何ですか」と問われて、近くの生徒と「俺らにとって歴史とは何なんだろう」って45分くらい話して終わるみたいな授業だった。それがとても印象に残っています。

歴史とは何かを自分で突き詰めて考えたことはそれまでなかったし、その授業がなかったら考えることはおそらくなかった。そこを考えるところから学びが始まるのだと、すごく印象に残りました。

藤井:話を聞いていて思い出したのが、公立の中学校のときの数学のテストです。

「赤い球と青い球が3個ずつ入っている袋の中から、何色の球をだす確率はいくつでしょう」という問題があって、そこに「緑の球がでてくる確率はどれくらいでしょう」という設問があったのですね。ぼくは、「そんなの、出てこない。入ってないのだからありえない」と書いたんですね。そうしたら、確率だから「ゼロ」と書かなきゃいけないと、バツにされたのです。結果をデータとして打ち込むためには正しいことなのでしょうが、ぼくの中では納得できないわけです。緑の球が出てくるわけはないので、文章としてありえないというのも、答えとしては確実に正しいですよね。そういう考え方の柔軟性は、シュタイナー学校の方が大きいと感じました。

菅谷:中心授業(エポック授業)で美術史がありまして、それは私にとって大きかったです。今の私の進路につながった授業です。この作品はどこで誰が何年につくったという学びではなく、作品ができた歴史的背景や時代背景、当時の人々の意識などを見ていきました。今、私は現代美術に取り組んでいますが、人々の意識の産物としての美術作品を追っていくことによって、人の意識の成長としての歴史が見えてくるような美術史に触れたことが、私の現代術への考え方のベースになっています。

【次ページに続く】

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