シュタイナー教育の概要

Introduction to the Steiner Education

シュタイナー教育とは

すべての子どもはユニークな個性をもって生まれてきます。そして、その個性を世界と調和させて生きたいと願っています。

ドイツを中心に活躍したシュタイナー教育の提唱者、ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)が教育における才覚を初めて発揮したのは23歳の頃でした。彼はある家庭から、11才半になる水頭症の少年の家庭教師を依頼されました。その少年はまったく学習活動を受け付けることができませんでした。ルドルフ・シュタイナーが行ったのは、彼を編み物などの手仕事に取り組ませることでした。手足を使った意志活動に集中した結果、わずか1年半で少年の頭は小さくなり学校に受け入れられます。その後、少年はギムナジウムの課程を終えて医者になりました。

ルドルフ・シュタイナーはこのような経験と独自の人間洞察から、知的な経路を通じた学習は教育のほんの一部に過ぎないと考え、感情や意志に働きかける総合芸術としての教育を構想していきました。芸術となった教育により、すべての子どもに共通する心身の発達プロセスを適切に整え、その上でひとりひとりのまったく異なる個性をそのプロセスの中に調和的に導き入れる。そのようなプロセスを通して、個性はとらわれのない自由を獲得できると考えたのです。

その後、第一次世界大戦の戦火の中で、健康な社会の再建には自由な人間精神の育成が必要であると考え、ルドルフ・シュタイナーは彼の社会改革構想の中核に教育を位置づけます。終戦直後の1919年、労働者の人間性回復に尽力していたタバコ工場主エミール・モルトの依頼に応え、彼は、労働者の子どもたちのための学校として自由ヴァルドルフ学校の創設アドバイザーを引き受けたのです。

シュタイナー学校の世界的な広がり

その後、シュタイナー学校(自由ヴァルドルフ学校)運動は世界60数カ国に1,000校を超える広がりをもつ*、世界規模の教育ムーブメントとなりました。ヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニア地域で広がってきた学校は、今ではアジア地域にも急速に広がりつつあります。

※ 最新の世界の学校数はルドルフ・シュタイナー教育芸術友の会の発行するワールドリストをご確認下さい。

100年近い歴史を重ねてなお新しい文化のなかに根付いていくこの教育の柔軟性は、最初期の時代から継承され発展してきたものです。第一次大戦終結の年に開校した最初のシュタイナー学校は、当時としては極めて異例な労働者の子どもたちのための男女共学校でした。ルドルフ・シュタイナーは学校創設アドバイザーを引き受ける際に、すべての子どもに開かれた学校にすることを条件にしました。また、個々の教員の自由を尊重するため、校長を置かない共和的な運営スタイルをとったことも時代を画す動きでした。以来、シュタイナー教育運動は、保護者も学校づくりに関わるスタイルを定着させながら、教育を人間的な営みへと高めようとする様々な教育改革の先頭を走り続けています。

シュタイナー学校は当初、ヨーロッパ文化圏で成立した教育スタイルを各国に移植するかたちで広がりましたが、時代の変化とともに、現在では各国固有の文化に根ざした教育スタイルへの模索が始まっています。ヨーロッパにおいても、移民受け入れによる多民族・多宗教のクラス編成が進んでいます。国際ヴァルドルフ教育フォーラム(ハーグサークル)や国際シュタイナー/ヴァルドルフ幼児教育協会(IASWECE)は、そのような文化の多様性に応えていくために生まれた新しい活動です。

激しく変化していく社会情勢に呼応しながら教育の普遍性を維持するには困難が伴いますが、国際的な相互扶助ネットワークによってシュタイナー教育は確かな教育の質を未来につなげていきます。

日本でのはじまりと発展

そのような世界的なシュタイナー教育の潮流のなかで、日本ではアジア圏でももっとも早くシュタイナー教育の受容が始まりました。1970~80年代、荒廃が進む日本の教育への対案を求める人々の間にシュタイナー教育への関心が高まりを見せたのです。勉強会や講座が全国で開催され、多くの若者が海外の教員養成で学ぶために海を渡りました。そして、1987年、ドイツの教員養成を終えたひとりの若者を迎えて、日本初のシュタイナー学校である東京シュタイナーシューレが東京都新宿区の店舗住宅の一室で始まりました。校内暴力が表面的に沈静化していく一方で不登校生徒児童が数を増し始めた時期であり、1985年には不登校児童生徒の居場所型フリースクールの先駆けとなった東京シューレが東京都北区で始まっています。

当時、学校外の学びの事例はまだ少なく、就学義務違反のスティグマを背負いながらの活動が続きました。しかし、1990年後半になると急増した不登校児童生徒が13万人を超え、教育行政としても学校外の子どもに対応せざるを得なくなっていきます。その流れに乗るように、小泉政権下の規制緩和政策である構造改革特区制度を使ってフリースクールの法的認可を目指す運動が起こりました。シュタイナー教育関係者も多数参加する「教育の多様性の会」は、国際条約にも謳われた教育への権利として「教育を受ける権利」「教育を選ぶ権利」「教育をつくる権利」を訴え、2002年末の集会を発端に多くの集会や勉強会を開催し、ホームスクーラーを含む数多くのフリースクール関係者が合流したのです。シュタイナー学校としては2校が学校法人を取得し、自治体の協力の下で廃校を活用した学校づくりが始まりました。先述の東京シューレも学校法人の中学校を設立しています。

このような活動を通じて日本におけるシュタイナー学校の社会的認知も少しずつ進み、全日制シュタイナー学校の数も増えて、フリースクール型のシュタイナー学校を選択するハードルも次第に下がっていきました。2008年に入ると民主党への政権交代が起こり、鳩山首相は「新しい公共」政策を打ち出しました。全国のシュタイナー学校はこれを受け、共同で「教育の多様性を保障する制度づくり」「NPO運営校への高校無償化の適用拡大」を求める陳情書を首相に提出します。この動きと3.11への危機対応は、日本シュタイナー学校協会設立の契機となりました。

2014年には学校外の学びを法制化する動きが文部科学省と国会で始まり、日本シュタイナー学校協会は多様な学び保障法を実現する会の団体会員として、この動きに関わっています。